争いが生んだ法衣袈裟の進化?道鏡と廃仏論
聖武天皇の遣隋使派遣から日本に根付き始めた仏教ですが、この頃には東大寺の大仏が制作されるなど、国教としての特色を兼ね備えきたころでもあります。
もともとは廃仏派であったと言われる物部氏一族の末裔と言われる道鏡という人物が「太政大臣禅師」に任ぜられるという出来事がありました。
物部氏と蘇我氏の争いと言えば、奈良時代以前から続く公家同士の問題であり、日本史上の中でも謎の多い出来事ですが、ことの良し悪しは別の話としても道鏡の出世は袈裟の発展に大きく関わったと言われています。
道鏡の大出世
実は道鏡という僧侶は度々「日本三大悪人」と呼ばれるほど悪名高い人物でもあります。
戒律とは反する形では進んでいった形になるものの、道鏡が法王などの位を経たことによって、天皇と並ぶほどの権力を得ることになります。
世間的な尊厳の必要性が求められたことから、袈裟はより豪華に、法衣はより権威性のある象徴的なものへと昇華していきます。
法王は当時、天皇と同等の権力を持っていたことから袈裟にも権威性が色濃くなってきたという事実があるのです。
三衣を更に細分化した奈良仏教の技術進歩
この頃、僧服は大きく3種類に分けられており、如法衣、甲袈裟、そして糞掃衣とされています。
甲袈裟はいわゆる飾り立てられた袈裟に分類されており、緋袈裟や紫袈裟などが代表的なものです。
日常的に着用されていた種類ではなく、賜り物などとして扱われていたことから、当時から希少価値、あるいは特定の条件を満たした僧侶だけが所有を許されたものだったようです。
この後、平安時代に移行していくとともに、空海や最澄によって新しい天台宗や真言宗が日本に伝わることになります。
西暦800年以降は、本格的に七条袈裟が重宝されてきたことにより、修多羅なども登場してくるようになってきたということです。