開祖としてだけではない鑑真和上の功績
聖徳太子の時代、日本国内において様々な形を持って広まったとされる仏教ですが、そこから約100年を経て、律宗の開祖として知られる唐の国から6度目の航海を乗り越えて鑑真和上が日本へと渡ります。
小学生の授業などでも取り上げられる鑑真和上は、唐の国から来た偉いお坊さんであった、とそこまで深く触れられるわけではありません。
しかし、日本の仏教文化に多大な影響を与えた1人であったことは言うまでもなく、それは袈裟や法衣など仏教を取り巻く環境にも通じることなのです。
遣唐使と聖武天皇
奈良時代、仏教を持って規律を作りながら文化を輸入したものの、広まり方には複雑なものがあり、ときの天皇であった聖武天皇は中国からの高僧を熱望しており、「授戒」と呼ばれる戒律の教えを求めていたそうです。
奈良時代以降、遣隋使、遣隋使を送り出しながら仏教を取り入れた当時の日本。
もちろん、一般的に考えると、当時の勢力は明らかに中国が上であったことは歴史的な事実であり、そこから学びを乞うという形によってようやく政治や宗教の混成が成されていったとされます。
そんな中、遣唐使に依頼をされて日本へ渡ったのが当時の鑑真和尚であったというわけです。
命の危険を顧みない航海
西暦で言えば742年と言われていますが、当時すでに高齢とされていた鑑真和尚は54歳から9年間に5回の航海をこなしています。
まだまだ西洋式の船などがなかった当時の航海は3割が命を落とすと言われていた中で、このような決断を出来た心は私達には完全には理解出来ないかもしれません。
さらに、この9年間の間の疲労や失敗によって、鑑真和尚は失明という過労からの大きなハンデを背負うことになります。
しかし、6度目の航海で屋久島に漂着出来たことから、日本において授戒を行い、仏教の方向性を作っていったとも言われています。
※6度目の航海も成功したわけはなく、漂着先がたまたま屋久島であった可能性が高いという部分も頭が上がりません
こうした功績を見ると「鑑真和尚は日本仏教の発展に大きく貢献した偉人である」という教えは正しくもあるのですが、忘れてはならないのは鑑真和尚が決して1人で日本へたどり着いたわけではなかったということです。
鑑真和尚は多くの職人も連れてきた?
諸説はあるものの、鑑真和尚が漂着したときには僧侶以外にも仏教に関わる職人が多く乗船していたそうです。
すなわち、建築技術はもちろんですが、法具、袈裟、法衣の職人なども含まれている可能性が非常に高いのです。
聖武天皇も鑑真和尚と対面をしていたとされ、その後、唐の道栄には緋袈裟を、紫袈裟などを高僧に与えるに至ったのも、こういった経緯が無関係だとは考えにくいでしょう。
この頃より、仏教における高僧は政治にも深く関わることになり、それに合わせるかのように袈裟の作りなどもさらに広がっていったというわけです。