袈裟が服飾として認知を得たきっかけ
今では仏教において様々な国において見かける機会の多くなった袈裟ですが
袈裟が仏門特有の服飾として認知をされるまでには複数の説が唱えられています。
仏陀の生前には、すでに仏教徒のシンボルとして着用されていたことや、その作り方については教えが残っているものの、これらはあくまでも門徒自身が縫い合わせることが前提です。
仏教成立当時、インドには多くの宗教が同時に存在していたため、基本的にはこれら在来の服装からも影響があったといいます。
しかし、本格的に認知されたきっかけとして有力な説としては
1世紀から5世紀前後、ちょうど多くの「仏像」が制作されはじめた時代だともされているのです。
仏像は当時の姿を写す史料でもあった?
私達が1世紀、2世紀と歴史で習う時間の感覚はあっという間ですが、実際には100年という単位で時代が進んでいることになります。
釈迦の入滅後、それぞれの弟子によって広がった仏教も、当然ながらその門徒の数は増加していったわけですが、それに伴う「開祖」としての姿を史料として残そうとする行動があったと言われています。
今では過去の著名なお坊さんの像は一般的ですが、当時は口伝が主流であったため、生きている間に作られた像というものは現在までに確認されていません。
すなわち「釈尊」の悟りの境地を目指す熱心な仏教徒にとって、釈尊の教えはもちろん、服装も信仰の対象であった可能性が高いということです。
これにより、ガンダーラやマトゥーラから出土した「仏陀像」は、袈裟の服飾にとっても大きな影響を与えてきたと言われているのです。
大陸においてさらに多様化した袈裟
伝わるところによると、中国へと仏教が伝わったのは1世紀頃だとされていますが、当時の僧侶は外来人(中国人以外の人々)と定めがあったそうです。
しかし、4世紀の始め頃には漢人の出家が公式に認められるようになったことから、僧侶の数が爆発的に増加したことを受けて、行儀方法が定められたり、5世紀にはインド経典を翻訳することが増えてきたそうです。
中国においては官職にも僧侶の地位が定められてきたことから、個人思想である「糞掃衣」のようにボロ布だけで形成された袈裟を儀式等にはふさわしくないという機運があったことも合わせて豪華な袈裟等が職人によって作成されることになったのです。
当時の荘厳な袈裟は、現在日本においても国宝指定されている十数点が現存しており、正倉院宝物などの1つに数えられています。
出典参考:井筒雅風 著作「袈裟史」より