法衣店に戻ったナオシチが出会った言葉と本質とは
「袈裟は仏法そのもの」
宗教って必要でしょうか?恥ずかしながら私ナオシチは、家業の法衣店に戻った24歳の頃「宗教って僕にはあまり必要ないかな」と思っていました。
「自分の人生は自分の努力次第、神仏に頼る必要はない」「お聴聞、繰り返し法話を聞くってある意味洗脳では…?」とさえ思っていたほどです。
また、法衣店として出張でお寺さんに伺ったときも、仏前で「南無阿弥陀仏」とお称えするのためらっていました。(住職さんに後ろから見られていると、なんだか恥ずかしく怖かったのです……)
しかし、たくさんの僧侶や寺族のみなさんとお話しをして、そして法衣店の代表として毎日法衣袈裟にふれるなかで、ある言葉に出会いました。
「袈裟は仏法そのもの」
法衣店のナオシチにとって法衣袈裟は、商品でもあります。商売として儲けを出し、それによって生活させていただく。でも、そこに対してどこかモヤモヤとした気持ちでいました。
「そもそも、なぜ僕は法衣店をしているのだろう」「法衣袈裟を売るだけなら、ナオシチでなくてもよいのではないか…」
そうした悩みを打ち消し、法衣店としての生き方の軸を定めてくれたのが「袈裟は仏法そのもの」という言葉でした。
職人と宗教を次世代へ
「袈裟は仏法そのもの」という言葉に出会って以来、法衣袈裟と向き合い、自分と向き合い続ける毎日から出会った言葉です。
家業の法衣店に戻ったとき、実はとんでもない額の借金がありました。どう返済していくか……考え抜いた末に行き着いたのは「本質」でした。
自分の人生を、お金中心に考えてしまっては本末転倒です。小手先のやり方はいろいろあるのかもしれませんが、それは根底に法衣店として揺るぎない「本質」があってこそ成り立つものです。その本質こそ、袈裟は仏法そのものであること、そして袈裟を次世代へ伝えることは仏法を次世代へ伝えることである、ということです。
人生は一瞬です。ぼくは人生を4分割、さらに、一年を4分割し、大きな目標に向かい、一歩ずつ小さな目標に取り組んできました。
まず、最初の3年は仕立ての技術や、法衣袈裟の歴史や意味などの知識をとことん学びました。
店主が自ら仕立てのできる法衣店は、業界全体で見ても僅かでしょう。ましてや、法衣袈裟の知識においても、その発祥から、また宗派を超えて学んでいる人はほとんどいないと思います。
「仕立て(技術)」と「知識」という、2つの両軸を確立し「法衣店としてできることは何か」を毎日考え続けました。そして、全国出張でたくさんの僧侶寺族のみなさんとお話し、日に日に強く固まってきた想いこそ「職人と宗教を次世代へ」です。
職人と宗教者の間に立つ法衣店。それぞれの未来を憂う声も耳にしますが、僕はどちらも魅力的で、次世代へ伝える・伝わるものだと考えています。
では具体的に「誰と・何を・どうすれば」伝わるのか……。
それは試行錯誤の連続です。「直七新聞」という紙媒体のかわら版を定期発行したり、2020年に新型コロナウィルス感染症が流行し、対面での交流が難しくなってからはいち早く「直七大学」というオンラインコミュニティを立ち上げ、皆さんとともに宗教を学びました。そして、40歳を迎え人生の第3章の始まりに、「直七LINEコミュニティ」を立ち上げました。
次回記事では、そんな直七LINEコミュニティについて、ナオシチの想いをお伝えします。