禅衣に見られる直綴(じきとつ)とは

 

日本において現代の仏教宗派が使用している法衣は、大きく3種類に分けられることで知られています。

そのうち、禅衣と呼ばれる鎌倉時代に発展した種類の法衣には「直綴(じきとつ)」と呼ばれる腰から下に重ねるものがあります。

直綴の発祥については諸説存在していますが、日本で誕生した説、及び、中国大陸で発展した説が大半を占めています。

百丈懐海が考案したという説

百丈懐海(ひゃくじょうえかい)は中国、唐代の高名な禅僧です。

直綴が生まれた一説には、この百丈懐海が相伝前の僧侶が褊衫、裙を別々に召していたことから、これをつなぎ合わせて「直綴」としたという記録があります。

※『勅修百丈清規』五(正蔵四八・一一三九上)

また、これらを裏付ける法衣袈裟の文化として、唐代には中国大陸で独自の進化を遂げていることが挙げられます。

条をデザイン化した中国仏教

10世紀頃の壁画とされている高昌ベゼクリック寺院遺跡の描写には、インドの僧侶と中国の僧侶が向かい合った形で描かれています。

通称ベゼクリク千仏洞と呼ばれるこの遺跡はシルクロードの西に位置する現在のウイグル人が当時は支配してた地域だったそうです。

長い期間砂に埋れていたこの遺跡は同時代のものでは最大級だと言われており、貴重な壁画が多かったとされています。

しかし、発見したドイツは当時第二次世界大戦、つまりいわゆるナチス政権が発足していた頃だったのです。探検の際に貴重な壁画等の多くは持ち帰られてしまい、さらに戦時中の爆撃などの影響で現在はその面影がほとんど残存していないそうです。

法衣袈裟を歴史として研究してきた井筒雅風氏の著作である「袈裟史」では、この僧侶の描かれ方に注目をしています。

なぜなら、そこに描かれていたインドの僧侶の袈裟は条数がはっきりと視認出来ない描かれ方をしているのに対して、中国の僧侶が纏っている袈裟は明らかに条数を意識して描かれているのです。

もともと、五条、七条、九条袈裟はそれぞれ三衣としてインドでは釈尊の時代から使用されています。

仏教がシルクロード、中国大陸へと伝わっていく中で形を変えたことは言うまでもないことですが、福田思想などを取り入れることで、条の数をデザイン化したのは主に中国だと同氏は推測しています。

また、同時代の像にも注目されており、腰から下、いわゆる直綴の部分に袈裟以外の衣類が表現されていることについても指摘されているんです。

今後、別のお話でも触れますが、空海や最澄などが中国から持ち帰ってきたと伝わる袈裟は非常にデザイン性に優れており、明らかに荘厳さを求めたものであることも分かるそうです。

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